紅型の歴史

紅型には、大きく2つに別れて、那覇型と首里型があります。
那覇型は一般的に庶民的で、首里型は華美さがあります。

これは琉球王朝時代や文化歴史が深く係わっています。旧王府時代の身分制の下では、紅型は王候・士族以上のアラーメージン(貴婦人)の琉球衣装で、平民は舞踊芸能家を除いては着用が許されない染物でした。

また、呼び名の「紅型〈びんがた〉」は、紅入色型・色絵垣・紅差型・色絵型・美型・色染(いろすみ)・絵さん・形付染物、中国福州では東洋花布と呼ばれたりもしています。

「紅型」と漢字を当てたのは、昭和期の初頭なのだそうで、紅入色型(びんいりいろがた)の略称なのだそうです。

12世紀頃から琉球王国の成立まで、あるいは島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」といいます。
その頃から人々は、中国や東南アジア、朝鮮、日本と行き来をし、貿易をしてきました。いわば海洋民族です。
それから歴史が進むなかで、さまざまな文化をしなやかに吸収・チャンプルし、亜熱帯地域性と共に琉球の唐の世・薩摩の世(琉球処分1871年)・アメリカ世(1952年)・日本の世(1970年)を生きてきました。
「やちむん」「琉球ガラス」「銀細工」「琉球漆器」「黒真珠」「珊瑚・貝細工」「紅型」「ウージー染め」「芭蕉布」「読谷山花織」「読谷山ミンサー」「琉球絣」「首里織り」「南風原の琉球絣」「宮古上布」「八重山上布」「久米島紬」「ミンサー織り」「与那国の紋織物」「板花手織手巾」「竹富ミンサー」「与那国花織」「沖縄赤瓦」など多くの工芸品を産み出してきました。また「漢方食文化」や庶民が作り上げたチャンプル食文化があります。

現在も爪あとが残るあの地上戦。終戦後、一度は道具も型も衰滅した紅型は、紅型宗家の1つ城間(旧称ぐすくま)家13代目の城間栄喜(しろまえいき)氏の熱意により、復興が実現されました。
沖縄歴史学者・東恩納寛惇(ひがんなかんじゅん氏)は「琉球の紅型」の冒頭で「琉球ビンガタに紅型の文字を当てたのは、故伊波くんである」と記述しています。
山村耕花(日本画家)編・岡田三郎助(洋画家)校訂「紅型ー古琉球」1928/5 東京・功芸社刊 古琉球紅型解題「琉球更紗の発生」で伊波普猷氏が初めて、紅型の文字を使っています。

紅型が京友禅の影響を受けている(地上戦で失われた型紙が多く京都に残っていて復興に大きく役立ったと言われています)としても、14世紀半ばから16世紀半ばの東南アジア地域との貿易 ”琉球の大貿易時代” に紅型の一種「ビンガタウチュクイ」と称する筒引き風呂敷染めの模様に、南蛮更紗の面影が見られたり、弁柄の音韻に語源があるのではと研究されたりと、東南アジアの文化との関連は否定できないでしょう。

いずれにせよ、沖縄方言でいうビンガタ、ビンガタカタチキの意味は生地に模様型紙で糊を型付けし、手採色で配色して染め上げる多彩な染物をさしています。
沖縄ではいろいろな色彩を称して「紅」といいました。形付けの後に多種類の色料を刷毛・筆・隈筆で彩色(色差し・暈し・擦り込み)した鮮やかな模様型染をビンガタと呼ばれるようになったようです。